美女

美女

私はいつも逃げてばかりゐるやうです。それといふのも、私といふ男は、齢五十をとうに過ぎてゐながら、私と同じ生きものである人間、特に女の人に対する抵抗力が実に弱く、まるで生れたての赤ん坊がたやすく風邪をひくやうに、やられてしまふのです。
 はじめ軽いくしやみが一二度出たかと思ふと、アッといふまに肺炎を併発して高熱にうなされるのです。困つたものです。
 そこで私は元々貧弱な勇気をふるひ立てて、女の人に対する皮膚の抵抗力を増進させるため、冷水摩擦のたぐひを試み、あのかぐはしい香気が、人よりも大きな鼻の孔に侵入しないやうにと、マスクなども用ひるのですが、何のたしにもならないのです。
 ごらんに入れた拙い句は、去年の夏、神戸から船に乗つて松山へ行くときのものです。
 そのときも私は例によつて風邪をひきかゝつてゐたのです。こんどの風邪は鼻かぜ位ではすみさうもないといふ予感があつたので、松山にでも逃げ出して、谷野予志先生の長い温顔でも見たら直るだらうと思ひ立つたのです。
 アメリカ語のカラミティといふのは厄病神のことださうですが、どこか日本語の趣もあるやうです。私の風邪の神様は波止場の近くまで送つてくれましたが「どうぞお船が沈没しますやうに」と呪咀を吐ひて、カツ/\と踵の音を立てながら帰つてゆきました。
 波止場まで来なかつたのは、私の若い友人達が見送りに来る事を知つてゐるからです。
 私にも遠い昔に青年時代があつて、大きな船で外国へ出稼に行つた経験があります。その船にくらべて、別府航路の船の何とチマチマしてゐることよ。それでゐてチャンと船なのです。ドラも鳴りますし、出帆の汽笛も鳴るのです。すると眼と鼻の先にゐる人々が、船と陸からテープを投げ合ふのです。
 私の若い友人達は、私がさういふ事を好まないと思つてゐるのか、だまつて突立つてゐるだけで、誰もテープを投げませんでした。
 船はむやみに夜光虫をひつかき廻しながら陸を離れました。私は頭の上の天の川を一寸眺めただけで、すぐ船室に横たはりました。眼をつぶると一つの顔が見え、心の中の風邪はしだいに重くなるやうでした。
 翌朝、松山に着きました。私はほんとは男の友達と談笑してゐる方が好きなのです。ですから予志先生が連中と共に出迎へてくれた時、全くホッと一息ついて、夜と共に去つた、海の彼方の地をふりかへるのでした。沈んでしまへと呪はれた船が沈まなかつたのも結構でした。
 予志先生はどういふものか、いきなり私を街へ連れ出しました。松山といふ街は始めてではありませんが、どうしてあんなに衣類ばかり売りたがるのでせうか。その本通りから丸見えの横町で、一人の犬捕りが、針金の輪を餌物の首にひつかけようと苦心してゐるのは、
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炎天の犬捕り低く唄ひ出す
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といふ句の作者を歓迎するためでせう。それにしてもこの哀れな野良犬は、まるで私のやうに、針金の輪から遁走しようとはしないのです。

 靴下祭とは何のことか判りますか。商人が女の人に靴下を売りつけるたくらみです。祭にも色々あるものだなと感心しながら、偶然に眼が向いた女靴下専門店に、思はず息が止つた程の美女がこちらを向いてゐました。マネキンという職業の人です。私は勿論、足を止めて立ちつくしました。
 松山ではベレ帽は珍らしいのでせう、その人も奇妙な老人を見ました。男が婦人用靴下専門店に立入るのは勇気が要ります。幸なことに私にはその勇気が少しばかり残つてゐましたので、一人で中へはいりました。そして、なほ幸なことには、その店は何々ナイロン靴下宣伝中で、製造過程の大きな写真が飾られてあつたから、私はそれを熱心に見る振をしながら、横目で美女をうかゞひ見ました。私には美しい女の人の形容は出来ません。とにかく大変な美女です。
 わが謹厳なる予志先生は、それからの三日間、毎日一度づゝ、靴下祭参詣の私のお伴をさせられました。先生の観察によると、彼女は大阪から出張した宣伝員にちがひなく、或は私と同じ船で帰るかも知れない等といひます。一難去つて又一難です。
 暗い晩に、私は帰航の船に乗りました。予志先生も他の人達も、テープを投げないのは神戸の時とおなじです。先生は別れの手を振るのですが、その手振りが少しへんで、何かを指し示す趣です。そしてあらうことか、その指の先には靴下祭の美女がちやんと乗つてゐるではありませんか。
 神戸に下りた時、彼女の姿はみえませんでした。その方がいゝやうな、さうでもないやうな気がしました。
 後日うちの主婦に、もう一度息の止まる美女にめぐり会ひたいものだといひますと、大阪中のデパートの靴下売場を探してごらんなさいと教へてくれました。妙案だとは思ひましたが、私はデパートに一足入れると、何とも云ひやうのない、絶望におそはれるので、美女には再会したいがやめにしました。
 ところが或日、道頓堀の雑踏の中に、まぎれもない靴下嬢が、衆人にぬきんでて来るのを見ました。勿論私は息を止めて立止りました。彼女もベレの老人を見たやうです。
「あれがさうだ」と、私は礼儀を忘れて連れの女の人に云ひました。彼女の今度の呪咀は「なんだ! カレーライス」といふのです。いふところの意味は、彼女ならそこの角を曲つたカレーライス専門店の常連だといふのです。それをきいて私は大いに安堵しました。あれを食ふと頭の地がかゆくてたまらないので、私は食はない事にしてゐるからです。
 私はどうやらあとの一難からは逃げのびたやうです。

 

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